その夜、教会のベッドで、俺はなかなか目を閉じられなかった。
『緊張していますか?』
(そりゃ、するだろ)
見せるところと、隠すところ。
明日のことを考えるたび、頭の中で何度も同じ場所に線を引き直してしまう。
窓の外では、灯籠の光がゆっくり揺れていた。
翌朝。
ひんやりした空気の中、俺は“今日の装備”のままギルドの裏庭へ向かった。
簡素な革鎧。肩当て。腰の短剣。
昨日と同じ重さを身につけているだけなのに、今日は少しだけ体に張り付いて感じる。
ギルドの裏庭は静かだった。
砂地の上に、木製の人形と杭が並んでいる。
その向こうで、ガランさんが腕を組んで待っていた。
「来たな」
「はい」
短く返事をすると、ガランさんは顎で手前を示した。
「そこに立て。昨日の崖で、お前がどんな足で動いたのか、まず確かめる」
「足、ですか」
「ああ。刃はその次だ」
声は落ち着いている。
けれど、目だけはいつもより細かく俺を見ていた。
(昨日の一歩、やっぱり見逃してもらえないよな)
『証言も集まっているはずです。アヤさんたちから』
(だよな……)
俺は言われた通り、裏庭の中央に立った。
足元の砂が、乾いた音を立てる。
「まずは昨日と同じ装備で動け」
「分かりました」
「その場で、前後左右に一歩ずつ。普段通りでいい」
右足を前へ出す。
踵から強く落とさず、足裏全体で砂を踏む。
土に引っかからないように、重心だけを前へ滑らせる。
次に後ろ。
右足をわずかに引いて、左足は半歩だけ追わせる。
すぐ前へ戻れるように、逃げ道を残す。
右、左。
腰の向きは大きく変えない。
足だけで位置をずらし、体の正面を崩さない。
頭の中には、いつもの癖でいくつもの嫌な場所が浮かんでいた。
ここに足を置いたら、地面が抜けた時に戻れない。
ここへ寄りすぎると、誰かが倒れ込んできた時に巻き込まれる。
それを避ける形で、一歩ずつ置いていく。
『セイ、今は見せていいところです』
(分かってる)
「止まれ」
何度か繰り返したところで、ガランさんの声が飛んだ。
彼はゆっくり近づいてきて、俺から少し離れた場所に立つ。
「……やっぱり、普通の子どもの歩き方じゃないな」
「どういう意味で、ですか?」
「危ない場所を先に決めてから足を置いている。崩れる場所に足を出さない。人が飛んでくる通り道を避ける。そういう足だ」
ガランさんは砂の上に指で一本の筋を引いた。
「昨日の崖でも、そうだったんだろう」
通り道。
その言葉に、胸の奥が小さく跳ねた。
『“線”とは言われていません。大丈夫です』
(分かってるけど、言い方が近いんだよ)
ガランさんは立ち上がると、今度は数歩離れた位置へ移動した。
「次は俺が動く。お前はぶつからないように避けろ。攻撃はしなくていい」
「了解です」
ガランさんが一歩、こちらに近づく。
大きな動きではない。
けれど重心の置き方に、無駄がなかった。
そのまま踏み込まれたら、肩が俺の胸元に当たる。
右足を出せば、俺の足首が踏まれる。
俺は右斜め後ろへ半歩だけずれた。
左足はすぐ前へ出せるように残す。
ガランさんの肩が、俺のすぐ前を通り過ぎた。
「ふむ」
次は右から。
さっきとは逆の角度で、少しだけ踏み込みが強い。
俺は前には出ない。
左足を引き、右足を横へ滑らせる。
通り道から、体を外へ逃がした。
何度か、角度と距離が変わる。
そのたびに、俺は半歩から一歩でぶつからない場所へ移動した。
真正面に立たれた時だけは、左足を前に出し、右足を少し後ろへ残す。
体を薄くして、肩をすり抜けさせる。
やがて、ガランさんが手を上げた。
「よし。そこまででいい」
そう言って、裏庭の端に置いてあった木剣を一本拾い上げる。
胸の奥が、少しだけ冷えた。
「……昨日の報告は、もう聞いた」
ガランさんは木剣を肩に担ぎ、ゆっくりと言葉を続けた。
「崖が崩れたこと。濁りが噴き出したこと。魔物の数と種類」
一本ずつ、事実を数えるような声だった。
「それから、お前がリアンを助けたこともな」
喉が渇く。
「アヤは言った。セイがいなければ間に合わなかった。だが、禁止していた危険行為でもある、と」
「……ですよね」
「コルトは、現場の戦力として見れば頼もしすぎる、と言った」
ガランさんは木剣の先で、砂地を軽く叩く。
「ミナは、ずっと後ろに置くのも違う、と言った。リアンは、セイの力は祈りでも魔法でもない。だが、自分の祈りと同じくらい、助けるための力に見えた、と言った」
全部、聞かされている。
そういう声だった。
「……俺は」
何か言おうとして、言葉に詰まった。
あの時は、考えるより先に体が動いた。
ルールを守ったとは言い切れない。
けれど、動かなかった方が、もっと危なかった。
「このまま“戦闘完全禁止の少年”として扱うのは、もう現実的じゃない」
ガランさんは、砂に引いた筋を木剣の先で消した。
「だから、ギルドとして正式に、お前の実力を測る。どこまで任せてよくて、どこから先は駄目か。そこを引き直す必要がある」
「……それが、今日の裏庭ですか」
「今日は顔合わせと、足と間合いの確認だ」
ガランさんは木剣を構え直した。
「本番は明日。ギルド裏手の訓練場で、皆の前でやる。昇格の話も含めて、そこで決める」
「昇格……」
口の中で、その言葉を転がす。
今の俺は、まだ見習い扱いだ。
荷物持ちと地図係。
そこから一歩出るには、ギルドとしての印がいる。
「もちろん、無理にとは言わない。お前が今のままでいいと言うなら、昇格の話はここで終わりだ」
ガランさんの声は、意外なくらい柔らかかった。
「ただ、その場合でも、お前とは一度、木剣を合わせる。今後、お前をどう守るかを決めるためにな」
俺は拳を軽く握った。
(今のまま、か)
荷物を持つ。
地図を見る。
危ない場所を避ける。
それだけでも、たぶん役には立つ。
でも、昨日リアンの足元へ走った黒い筋を、俺はもう見てしまった。
あれをもう一度見て、「俺の仕事じゃない」と背を向けられる自信はない。
「……やります」
気づけば、そう口にしていた。
「ルールの中で。前に出ていい場所と、出ちゃいけない場所を決めるために、俺のことを見てください」
ガランさんは、ふっと笑った。
「よし。なら、今日のところは少しだけ木剣を振る。取れ」
俺は裏庭の端に置かれていた木剣を拾った。
短剣より少し長い。
それでも、子ども用に近い短めの木剣だ。
「今日の目的はひとつだ」
ガランさんが、肩の力を抜いて立つ。
ただそこにいるだけなのに、一歩踏み込めばどこまで届くかを正確に測っている立ち方だった。
「倒そうとするな。俺の木剣を逸らして、自分も俺も怪我をしない場所へ流せ。それだけ考えろ」
「了解です」
『セイ、今日は“本番前の確認”です。見せすぎないでください』
(うん。あくまで、少し動ける子どもくらいで)
『少し、の定義が心配です』
(そこは信用してくれ)
木剣を両手で握り、胸の前に上げる。
右足を半歩前へ。
左足を少し後ろへ。
その時点で、逸らせる場所と、無理に受けると崩れる場所がいくつか浮かんだ。
「行くぞ」
ガランさんの足が、音もなく砂を踏んだ。
最初の一撃は、肩から落とされる軽い縦打ちだった。
俺は木剣の側面を合わせ、正面で受け止めない。
左へ半歩ずれながら、力を横へ逃がした。
木と木が触れる乾いた音。
腕には重さが残ったが、潰されるほどではない。
二回目は横から。
腰の高さへ流れてくる木剣を、俺は斜めに合わせて上へ逃がす。
前には出ない。
足だけを動かし、体の中心を外す。
三回目。
ガランさんの木剣が、俺の肩先を狙うように落ちてきた。
俺は受ける角度を少し変え、木剣を滑らせる。
砂を踏む足に、力を入れすぎない。
重心は、いつでも逃げられる場所に置いた。
「……なるほどな」
ガランさんはそこで木剣を引いた。
まだ汗もかいていない。
けれど、これ以上続ければ本番の中身に踏み込みすぎる。
俺にも、それは分かった。
「今日はここまでだ」
「はい」
俺は木剣を下ろし、少しだけ肩で息をした。
(疲れたふり、忘れるな)
『はい。肩をもう少し上下させてください』
(演技指導までされるのか、俺)
『必要です』
内心でぼやきながら、俺は息を整えるふりをした。
ガランさんは木剣を肩に担ぎ、こちらを見る。
「明日が本番だぞ、セイ」
「はい」
「お前がどこまでいなせるのか。俺に見せてみろ」
その言葉が、妙に胸の奥に残った。
その日は、外の依頼は入らなかった。
濁りの噴き出しと崩落があったばかりだ。
ギルドとしても外縁に出るパーティを絞っているらしく、俺たちに出された指示は「午前は休み、午後は村内の見回り」だった。
昼過ぎまでは、それぞれが装備の手入れや荷物の整理をして過ごす。
俺は教会とギルドを行き来しながら、昨日のルートの記録をリラと一緒に整理した。
夕方。
灯籠に火が入り始める頃、ギルドの前でアヤが空を見上げていた。
「アヤさん」
「あ、セイ君」
振り返ったアヤは、いつものように凛とした顔をしていた。
けれど、目元に少し疲れが残っている。
「明日、ガランさんとやるって聞いたよ」
「はい。昇格テストも兼ねて、だそうです」
「そっか」
アヤは一度、視線を落とした。
「正直に言うとね。私は、まだうまく整理できてない」
「整理、ですか」
「うん。セイ君が戦えるってことが、昨日の一歩で分かったから」
アヤは胸元の革鎧に指を添える。
「リアンを助けてくれて、本当にありがたかった。でも同時に、私はセイ君に危ない一歩を踏ませたんだって、ずっと考えてる」
「無茶、というほどじゃ」
「あるよ」
即答だった。
「セイ君は、本当なら後ろで道を見てるだけでいい子だった。崩れかけた崖の前で、あんな一歩を踏ませたのは、パーティリーダーとしては失点だよ」
自分を責める声だった。
「でも、あの一歩がなかったら、リアンは今ここにいなかったかもしれない。だから、あの場で私は『ありがとう』って言うことしかできなかった」
アヤは小さく息を吐く。
「明日の試合は、セイ君のためでもあるけど、私のためでもあるんだと思う」
「アヤさんの?」
「うん。私が、セイ君をどこに立たせるべきか、ちゃんと見るための機会」
アヤは、まっすぐ俺を見た。
「お願いがあるんだけど、聞いてもらっていい?」
「俺にできることなら」
「明日は、ガランさんを倒そうとしないで」
その言葉に、俺は少しだけ目を瞬かせた。
「倒す、ですか」
「うん。勝つところじゃなくて、最後まで立っているところを見せてほしい。ガランさんの攻撃をいなして、自分も相手も壊さずに立っているセイ君を」
妙に、胸に落ちる言葉だった。
(……いや待て。ギルドマスター相手に、勝たずに負けずに最後まで立ってろって、注文としてはかなり無茶じゃないか?)
『難易度は高いですね』
(そこは否定してほしかった)
俺が元いた世界で、一度だって「勝ち」に立ったことはない。
勝ち負けではなく、壊さないこと。
それだけを選び続けてきた。
「……分かりました」
俺はゆっくり頷いた。
「勝つことより、最後まで立ってる方を優先します」
「ありがとう」
アヤはようやく、少しだけ笑った。
「私も、ちゃんと見る。セイ君が前に出る時の危険も、頼もしさも、両方」
その言葉が、妙に心強かった。
夜。
教会の裏庭へ出ると、灯籠の光が低い塀と木々を照らしていた。
その真ん中で、リアンが祈りの姿勢を解いて振り返る。
「セイさん」
「こんばんは。……また裏庭に来てしまいました」
「ふふ。ここ、落ち着きますから」
リアンは小さく笑ったあと、少し真面目な顔になった。
「明日、ガランさんと試合をするって、聞きました」
「はい。昇格テストも兼ねて、だそうです」
「その……」
リアンは袖口をきゅっと握った。
昨日、焦げ跡が残っていたところだ。
今は祈りと清浄で整えられていて、黒ずみは見えない。
「昨日は、助けていただいて、本当にありがとうございました」
「礼なんて。俺も、あそこで動かなかったら後悔してました」
リアンは静かに頷く。
「私、セイさんの力を、祈りでも魔法でもないと思っています」
「……え?」
「でも、私の祈りと同じくらい、誰かを助けるための力だと感じました」
それは、ガランさんが伝えたと言っていた言葉と同じだった。
「だから、明日の試合も……セイさんが誰かを傷つけるためじゃなく、守るための力を見せてくれるなら、私は安心して祈っていられます」
「守るため、か」
「はい」
リアンは胸の前で手を重ねる。
「ガランさんは厳しい方です。でも、とても優しい方です。セイさんがどこまで前に出て、どこから先は出ないのか。本気で考えてくださっていると思います」
どこまで前に出るか。
どこから先は出ないか。
その言葉に、不思議と肩の力が抜けた。
「分かりました」
俺は小さく息を吐く。
「じゃあ、明日も、リアンさんの祈りを背中で受けていられるように頑張ります」
「はい」
リアンは、今度ははっきりと笑った。
夜風が少し冷たくなってきたので、俺は礼を言って教会の中へ戻った。
小さな部屋に戻ると、薄暗い室内にリラの声が落ちてきた。
『おかえりなさい、セイ』
「ただいま」
窓の外には、灯籠の光が小さな輪になって並んでいる。
俺はベッドの端に腰を下ろし、軽く伸びをした。
『明日の試合について、整理しておきましょうか』
「そうだな。目標を決めておかないと」
俺は指を一本立てた。
「ひとつ目。明日、俺は勝ちに行かない。倒すんじゃなくて、いなして立ち続ける」
『はい。ガランさんの攻撃を受け、流し、自分も相手も最小限の負担に抑える。それが目的です』
「ふたつ目。見せすぎない」
自分で言って、少し苦笑する。
「俺の本当の反応を全部出したら、多分いろいろ面倒になる。ガランさんはともかく、ギルド本部とか、教会とか」
『そうですね。理層寄りの動きや、人間離れした反応速度は封印しましょう』
「うん。あくまで、よく訓練された少年の範囲で」
俺は三本目の指を立てる。
「三つ目。それでも、何もしない危険は伝える」
『何もしない危険、ですか』
「昨日みたいな場面で、俺が動かなかったらどうなっていたか。そこは、ガランさんにも共有してもらう必要がある」
『つまり、セイが完全に後ろへ下がり続ける選択肢にも危険がある、と見せるのですね』
「そう」
俺は手を下ろした。
「最初の何回かは、ぎりぎりまで避けるだけに徹する。だけど、命に関わるところまで行く前に切り替える」
『了解しました。明日の試合用に、動きのパターンをいくつか整理します』
「頼む」
ベッドに横になる。
目を閉じても、足の裏に砂の感触が残っていた。
木剣の重さ。
ガランさんの一歩。
昨日、リアンの足元へ走った黒い筋。
見せるものと、隠すもの。
守るために出る一歩と、出てはいけない一歩。
その境目を考え続けるうちに、意識が少しずつ沈んでいった。
夜明け前。
村のどこかで鐘が一度だけ鳴り、俺は目を開けた。
装備を確かめる。
短剣。
革鎧。
肩当て。
昨日と同じ、“今日の装備”。
『体調は安定しています』
(よし)
『ただし、緊張はしています』
(そこは言わなくていい)
『必要な情報です』
小さく息を吐き、教会を出る。
朝の空気は冷たかった。
ギルドの裏手へ回った瞬間、空気が変わる。
人の気配が、思っていたよりずっと多い。
木柵の向こうから、ざわめきが押し寄せてきた。
冒険者だけじゃない。
村の人たちもいる。
(……思ったより公開されてるな)
『はい。見せすぎ注意です』
(分かってる)
足元の砂を踏む。
昨日より重い音がした気がした。
その時、向こう側でガランさんの声が響いた。
「今日は、セイの昇格テストだ」
ざわめきが、すっと引いていく。
俺は木柵の入口に立ったまま、息を吸った。
見せるところと、隠すところ。
その線を、今日は人前で引かなければならない。
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