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本編第1章 理が崩れた日、線を引く少年が生まれた

第5話 外縁への散歩

外縁への散歩 本編
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第5話 外縁への散歩

 午後の日差しは、思ったよりも強かった。

 ギルドの裏庭で、俺は借り物の装備と格闘していた。

 昼前にガランさんから、《リュミエルの灯》の外縁見回りへの同行を言い渡された。

 村境まで。

 戦闘になったら前に出ない。

 危険が上がったら、アヤさんたちの指示に従って下がる。

 その条件を何度も確認されたうえで、今はミナさんが俺の装備を整えてくれている。

「……紐、多くない?」

「落としたら困るもの順に結んであるんだよ」

 ミナさんが、膝に手をついて笑った。

 俺の体には、簡素な革鎧が着せられている。

 肩当て。

 膝当て。

 腰のベルト。

 短剣。

 そして胸の前には、エルディアギルド印の小さな木札。

 その木札から、細い光の線が一本だけ伸びていた。

 線はギルドの建物へ向かっている。

(これが、ギルド登録の線か)

『はい。身元情報と最低限の保護祈念が、木札を通じて紐づけられています』

 リラの声が、頭の中で返ってくる。

 この世界では、紙の登録だけではないらしい。

 人と場所と役目が、マナの流れでもゆるく結ばれている。

「よし。こんなもんかな」

 ミナさんが腰のベルトを軽く叩いた。

「セイ君、ちょっと動いてみて。歩いたり、しゃがんだりして、痛いところがないか見たいから」

「分かりました」

 俺は裏庭の中央に立った。

 まず肩を回す。

 首を回す。

 腰を軽くひねる。

 膝を曲げて、伸ばす。

 足首を片方ずつ回した。

 革鎧は少し硬い。

 けれど、関節の動きは邪魔しない。

 次に、その場で軽く跳ねる。

 足裏が地面を捉える感覚が、前の世界よりずっとはっきりしていた。

(この体、やっぱり反応が良すぎるな)

『身体能力は、旧世界の一般成人男性を大きく超えています。瞬発力、柔軟性、平衡感覚、すべて高水準です』

(口に出したら終わるやつだ)

『はい。今日は“少し動ける子ども”に見せるのが安全です』

 そのつもりだった。

 そのつもりだったのだが。

「じゃあ、軽く走ってみて」

 ミナさんに言われ、俺は裏庭を小走りで一周した。

 最初はゆっくり。

 次に少しだけ速度を上げる。

 角で減速し、足を交差させずに向きを変える。

 膝を柔らかく使えば、鎧の重さも邪魔にならない。

 気分が乗ってしまった。

 庭の端で足を止め、前へ転がる。

 前転。

 膝をつかずに起き上がる。

 そのまま横へ手をつき、側転。

 最後に勢いを殺しきれず、体が後ろへ流れた。

 足裏で地面を押す。

 腰を抜く。

 視界がくるりと反転する。

 バック転。

 両足で静かに着地した。

 ぴたり、と庭の音が止まった。

 ミナさんが固まっている。

 コルトさんも弓弦を調整する手を止めていた。

 アヤさんは剣の柄に手を置いたまま、目だけで俺を見ている。

 リアンさんは、両手を胸の前で止めたまま、瞬きを忘れていた。

(……やったか?)

『はい。やりました』

「セイ君」

 アヤさんの声が、静かに落ちた。

「はい」

「今のは、普通の見習いはやらないからね」

「……すみません」

 ミナさんが俺の周りをぐるりと回った。

「待って待って。今の何? 体操? 訓練? それとも、この子の村では普通なの?」

「普通ではないと思います」

「自分で言っちゃった」

 コルトさんが小さく息を吐く。

「体は軽い。足も速い。だけど、着地の音が小さい。見せるための動きじゃないな」

「分かりますか?」

「分かる。獲物を驚かせたくない動きだ」

 ぎくりとした。

 俺は慌てて首を振る。

「ちょっとだけ、昔に体を動かす遊びをしていて」

「遊びであれは、けっこう危ないね」

 アヤさんが苦笑する。

 けれど、声は責めていない。

「でも、今日の仕事では使わないで。セイ君は外の空気と灯籠の仕事を見て覚える日。戻る道をちゃんと見ておくのが役目」

 リアンさんが続ける。

「危なくなったら、アヤたちに任せて、いちばん後ろまで下がってください。いいですね?」

「分かりました」

 分かっている。

 俺の仕事は、前に出て全部倒すことじゃない。

 線を見ること。

 どこまで進んで、どこで引くかを覚えること。

『今日は、線の記録を取るくらいにしましょう』

(そのつもりだ。戻る道をちゃんと見ておきたい)

『では、補助表示を準備します』

 リラの声が、少しだけ楽しそうに聞こえた。

「出発するよ」

 アヤさんの一声で、空気が切り替わった。

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 俺たちはギルドを出て、村の北側へ向かった。

 先頭はアヤさん。

 少し後ろにコルトさん。

 ミナさんは俺の近くで、瓶の入った鞄を揺らさないように歩いている。

 リアンさんは後方。

 俺は真ん中より少し後ろ。

 前に出すぎず、後ろに下がりすぎない位置だ。

 村の道は、昼の光を受けて明るかった。

 畑では村人が鍬を振っている。

 水路のそばでは、子どもが木の棒で水面をつついていた。

 けれど、村の外周に近づくほど、見えるものが変わっていく。

 家の線が少なくなる。

 人の祈りの流れが薄くなる。

 代わりに、灯籠から伸びる青白い光が強く見え始める。

 村を守るための境目。

 その外に、濁りがいる。

(この世界の調査って、基本はどうやって記録するんだ?)

『紙です』

(紙)

『はい。現地で確認し、地図へ手書きします。灯籠の状態、地面の崩れ、魔物の痕跡、濁りの有無を記録し、ギルドへ報告する形式です』

(まあ、そうだよな)

 前の世界なら、端末で撮影し、位置情報と一緒に保存して、共有フォルダへ投げる。

 だが、この世界ではそうはいかない。

 手書き。

 口頭報告。

 経験と記憶。

 それで村を守っている。

『提案があります』

(何だ?)

『セイの視界に、簡易地図を重ねます』

 視界の端に、薄い図が浮かんだ。

 村の輪郭。

 道。

 北側へ伸びる外縁の道。

 灯籠の位置。

 俺たちの現在地。

(地図データはどこから?)

『村と外縁のマナ水晶に残っている公開レベルの位置情報です。ギルドや教会が使う基本情報ですね』

(勝手に見て大丈夫なのか)

『公開情報だけです。鍵のかかった情報には触れていません』

 そこは少し安心した。

 いや、頭の中にAIがいて、異世界のマナ水晶から地図情報を読んでいる時点で、安心していいのかは分からないが。

『この地図に、セイが見た情報を重ねます』

 足元の地面。

 石の位置。

 草の高さ。

 灯籠から伸びる光の太さ。

 それらが薄い線や点となって、視界の端に追加されていく。

『歩くほど精度が上がります。記録は私の側で保存します。前の世界の言葉で言えば、外部に見えないクラウドバックアップに近い管理です』

(便利すぎる)

『ただし、他の人には見えません』

(当然だな)

『会話では、普通の言葉へ変換してください。例えば、内部では“危険ライン・基準点A”として記録しても、口に出す時は“北側の危険な場所”です』

(了解)

 俺は視界の端に浮かぶ地図を見すぎないようにした。

 見えすぎる。

 それは便利だ。

 けれど、便利すぎるものは、周りに見せると危険になる。

「セイ、どうかした?」

 ミナさんが首をかしげる。

「いえ。道の感じを覚えようと思って」

「いいね。迷子にならないの大事」

「本当に大事です」

 迷子どころではない。

 どこで引き返すかを間違えたら、人が死ぬ。

 その現実が、足元の土の感触と一緒に少しずつ近づいてきた。

 畑が途切れる。

 柵が終わる。

 草の背が高くなる。

 外縁へ続く道は、土が踏み固められた一本の道だった。

 左右には腰ほどの草。

 ところどころに木の根。

 小さな石。

 人の足で踏まれた場所と、もう誰も踏んでいない場所の差がはっきりしている。

「ここから先は、私の後ろを歩いて」

 アヤさんが言った。

「コルト、左を見る。ミナは足元と右の草。リアンは後ろ。セイ君は、変だと思った場所があったら、すぐ言って」

「はい」

 アヤさんは剣を抜いていない。

 けれど、右手はいつでも柄へ届く位置にあった。

 コルトさんの視線は、草の揺れを追っている。

 ミナさんは瓶の入った鞄を片手で押さえながら、足元の石を避けている。

 リアンさんは後ろを確認しながら、時々、灯籠へ祈りの視線を向けていた。

 全員が、それぞれの場所を見ている。

 俺だけが全部を見ようとすると、逆に危ない。

 だから俺は、自分の仕事を絞った。

 灯籠の線。

 戻る道。

 足元の変化。

 この三つだ。

『北側灯籠、二基目まで正常範囲です』

(分かった)

 一本目の灯籠は、村の光としっかり繋がっていた。

 二本目も問題ない。

 ただ、三本目に近づいた時だった。

『セイ』

(何だ)

『地図情報にない反応があります』

 視界の端の地図に、小さな黒い点が浮かんだ。

 灯籠の位置ではない。

 道でもない。

 草地でもない。

 北東の森の奥。

 人が歩く道から外れた場所だった。

(何だこれ)

『不明です』

(濁りか)

『可能性はあります。ただし、通常の濁り反応より細いです』

 黒い点は、地図の上でゆっくり脈を打っていた。

 消えない。

 動かない。

 でも、そこにある。

 俺は足を止めかけた。

 その直前、アヤさんが先に止まった。

「……待って」

 声が低い。

 コルトさんが弓へ手をかける。

 ミナさんが鞄の留め具を外す。

 リアンさんが息を整えた。

 前方に、三本目の灯籠が見えた。

 光は消えていない。

 けれど俺の目には、灯籠の根元から森の奥へ伸びる、細い黒い線が見えていた。

 その線は、俺たちが見つけた黒い点へ向かっていた。

◇

「セイ君」

 アヤさんは前を向いたまま言った。

「何が見える?」

「灯籠の根元から、黒い線が森の奥へ伸びています。光は消えていません。でも、灯籠の下だけ、線が細くなっています」

「濁り?」

「たぶん。ただ、濃い塊じゃありません。細く引っかかっている感じです」

 言いながら、自分の説明が足りないと気づく。

 アヤさんたちに、俺の視界は見えない。

 だから言葉を足す。

「灯籠の光は、村側から外へ押し出すように流れています。でも根元の一部だけ、外から黒いものが入り込んで、光を削っています」

 アヤさんが小さく頷いた。

「分かった。近づきすぎないで確認する」

 彼女は灯籠から十歩ほど手前で止まった。

「ここを今日の限界にする。これ以上は、私が前へ出る。コルトは左。ミナは瓶を構えて。リアンは祈りの準備だけ。セイ君は下がりすぎず、でも前には出ない」

「はい」

 俺は自分の足元を見た。

 戻る道。

 草の低い場所。

 石の少ない場所。

 村側へ下がるなら、右斜め後ろが安全だ。

(リラ、この場所を記録)

『危険ライン・基準点Aとして記録します』

(口に出す時は?)

『北側の危険地点A、で十分です』

 俺は頷いた。

「アヤさん。ここを、北側の危険地点Aにした方がいいです。ここから先は、灯籠の線が細いです」

「了解。コルト、覚えて」

「覚えた。右に曲がった根、白い石、倒れた枝。ここが危険地点A」

 コルトさんは短く復唱した。

 その覚え方が具体的で助かる。

 地図が見えなくても、そこに戻れる。

 アヤさんが一歩前へ出た。

 その瞬間、灯籠の根元の草が揺れた。

 風ではない。

 土の下から、何かが押し上げている。

「来るよ!」

 アヤさんの声と同時に、黒い影が飛び出した。

 狼の形をしている。

 けれど普通の狼ではない。

 背中の毛が黒く濡れたように固まり、目の奥に赤黒い光があった。

 濁り狼。

 その一体目が、アヤさんへ飛びかかる。

 アヤさんの剣が横から入り、牙の線を叩き落とした。

 首を斬り飛ばすのではなく、進む先を潰す一撃だった。

 コルトさんの矢が二体目の前足を射抜く。

 ミナさんの瓶が、三体目の手前で割れた。

「《フラッシュ》!」

 白い光が弾ける。

 濁り狼が足を止める。

 その隙にアヤさんが踏み込む。

 剣が一閃し、一体目の肩を裂いた。

 黒い霧が散る。

 リアンさんは、両手を胸の前で開いた。

 祈りの言葉が小さく響く。

 灯籠の青白い線へ、柔らかな光が重なる。

 削られていた根元に、祈りが届こうとしていた。

 その時だった。

 俺の視界の端で、別の線が動いた。

 前へ出ている狼たちではない。

 倒れかけた三体目の影の下。

 そこから、泥のような小さな黒い塊が抜け出した。

 地面すれすれ。

 草の陰。

 誰の視線にも入りにくい低さ。

 向かっている先は、リアンさんだった。

(まずい)

『回り込みです。リアンさんの祈りに反応しています』

 リアンさんは祈りの最中で、足を止めている。

 アヤさんは正面の二体を押さえている。

 コルトさんの矢は次の狼へ向いている。

 ミナさんは二本目の瓶を取り出している途中。

 間に合う人がいない。

 俺は動きかけて、足を止めた。

 前に出るな。

 条件だ。

 俺は見習いだ。

 戦う役ではない。

 でも。

 黒い塊の線は、リアンさんの膝裏へ向かっている。

 あれが当たれば、祈りが崩れる。

 祈りが崩れた瞬間、灯籠の光も乱れる。

 そのあと、正面の狼が押し込んでくる。

 リアンさんが倒れる。

 そこまで見えた。

(リラ)

『命の危険に接続します』

 それだけで十分だった。

 俺は右足を半歩だけ出した。

 前へ走らない。

 大きく跳ばない。

 リアンさんと黒い塊の間に、最短で体を入れる。

 足裏で地面を押し、重心を低くする。

 借り物の短剣を抜く。

 斬るためじゃない。

 噛みつきの向きを変えるためだ。

 黒い塊が跳ねた。

 口のように開いた濁りが、リアンさんの足へ伸びる。

 俺は短剣の腹を斜めに入れた。

 刃を立てない。

 受け止めない。

 当たる角度だけをずらす。

 濁りの口が短剣の腹を滑り、俺の横を抜けた。

 同時に、左足を引いて体を薄くする。

 濁りは空を噛んだ。

「ミナさん、今!」

「分かってる!」

 ミナさんの瓶が、俺の横を越えて飛ぶ。

 地面に当たり、白い光が弾けた。

 黒い塊が一瞬だけ固まる。

 コルトさんの矢が、その中心を撃ち抜いた。

 アヤさんが正面の狼を押し返す。

 リアンさんの祈りが灯籠へ届いた。

 青白い光が一度だけ強くなり、灯籠の根元に絡んでいた黒い線を焼くように押し返す。

 黒い霧がほどけた。

 濁り狼たちは、形を保てなくなって後退する。

 一体はアヤさんに斬られ、もう一体はコルトさんの矢を受けて崩れた。

 最後の一体は森へ逃げようとしたが、ミナさんの小瓶が足元で弾け、動きが止まったところをアヤさんが仕留めた。

 静かになった。

 草が揺れる音だけが残った。

 俺は短剣を下ろした。

 手が少し震えている。

 恐怖ではない。

 危険の線が、さっきまで目の前にあった感覚が残っている。

「セイ君」

 アヤさんがこちらを見た。

 表情は厳しい。

「前に出たね」

「はい」

 言い訳はしなかった。

 リアンさんが俺の後ろで息を吸う。

「アヤ。今のは、私が危なかったです」

「分かってる」

 アヤさんは剣を下ろした。

「だから怒ってるわけじゃない。確認してるの」

 コルトさんが濁りの残りを見ながら言う。

「半歩だけだった。走ってはいない。倒しに行ってもいない。軌道を逸らしただけだ」

 ミナさんが俺の肩を軽く叩いた。

「助かったよ。私の瓶、間に合わなかった」

「ミナさんの瓶がなかったら、押し返せませんでした」

「そこは素直に受け取って」

「はい。助かりました」

 リアンさんは祈りを終え、灯籠へ小さく頭を下げた。

 そのあと、俺へ向き直る。

「セイさん。ありがとうございました」

「間に合ってよかったです」

 口にした瞬間、自分でも思った。

 間に合ってよかった。

 でも、今の一歩をどう扱うかは別問題だ。

 前に出た。

 約束を破った。

 ただし、助けるためだった。

 この線引きは、あとで必ず確認される。

『ログを保存しました』

(頼む。ガランさんに説明が必要になる)

『はい。セイが何を見て、なぜ動いたか、整理しておきます』

 俺は灯籠を見た。

 根元の黒い線は薄くなっている。

 だが、完全には消えていない。

 森の奥へ続く細い反応は、まだ残っていた。

「アヤさん」

「何?」

「濁りは押し返しました。でも、灯籠の根元から森の奥へ続く反応がまだあります」

 アヤさんの表情が変わる。

「追う?」

 その声には、前へ出る力があった。

 けれど俺は首を振った。

「今は追わない方がいいです。ここでリアンさんが狙われました。灯籠も完全には戻っていません。村へ戻って報告した方が安全です」

 アヤさんは一瞬だけ森を見た。

 踏み込みたい。

 そう思っているのが分かる。

 けれど、彼女は剣を鞘へ戻した。

「分かった。撤退する」

 その判断が、俺にはありがたかった。

「隊列は?」

 コルトさんが聞く。

「私が前。コルトは左後ろ。ミナはセイ君の近く。リアンは中央。セイ君は後ろを見ながら、危険地点Aまでの戻り道を教えて」

「分かりました」

 俺たちは灯籠へ背を向けなかった。

 ある程度距離を取るまでは、全員が森側を意識したまま後退する。

 アヤさんは剣の柄に手を置き、コルトさんは弓を下げすぎない。

 ミナさんは瓶を一本だけ手に持っている。

 リアンさんは祈りを使わず、足元を見て歩く。

 俺は視界の端の地図と、実際の道を見比べた。

 白い石。

 倒れた枝。

 曲がった根。

 危険地点A。

 そこを越えたところで、灯籠の光が少し太く見えた。

「ここまで来れば、一度息を整えられます」

 俺が言うと、アヤさんが頷いた。

「全員、怪我は?」

「なし」

「なし」

「瓶は二本使ったけど、体は平気」

「私も大丈夫です」

 最後に俺も頷いた。

「大丈夫です」

 アヤさんは村の方角を見た。

「戻ろう。報告する」

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 村へ戻る道は、行きより長く感じた。

 誰も大声では話さない。

 笑いもない。

 けれど、足取りは崩れていない。

 それが《リュミエルの灯》の強さなのだと思った。

 ギルドへ戻ると、ガランさんはすでに受付の奥にいた。

 アヤさんが短く報告する。

 北側外縁の灯籠に異常。

 濁り狼三体。

 小型の濁り塊が祈り中のリアンさんを狙ったこと。

 俺が半歩だけ割り込み、ミナさんとコルトさんの連携で押し返したこと。

 ガランさんは最後まで黙って聞いた。

 それから俺を見た。

「前に出たか」

「はい」

「倒すためか」

「違います。リアンさんの足を狙った濁りを、横へ逸らすためです」

「自分でそう判断したのか」

「見えました。リアンさんが倒れたら、祈りが崩れて、灯籠の光も乱れるところまで」

 ガランさんは腕を組んだ。

 厳しい顔だった。

 けれど、怒鳴らなかった。

「アヤ」

「今の説明で合ってる。セイ君が動かなかったら、リアンはやられてた」

「コルト」

「半歩だけ。攻撃じゃない。軌道を変えただけだ」

「ミナ」

「私の瓶が間に合ったのは、セイ君が一拍止めたから」

「リアン」

「助けられました」

 ガランさんは深く息を吐いた。

「分かった。今日の件は、俺が預かる。セイ、お前も教会へ戻って休め。夜に勝手な訓練を増やすなよ」

「……はい」

 ばれている。

 何も言っていないのに、なぜかばれている。

『目の下の疲労反応でしょうか』

(黙っててくれ)

 ギルドを出る頃には、夕方になっていた。

 空は赤く、村の灯籠が少しずつ光を強めている。

 リアンさんは教会へ戻る途中、俺の横を歩いた。

「セイさん」

「はい」

「助けていただいたことは、本当に感謝しています。でも、次に同じことが起きたら、ひとりで抱え込まないでください」

「分かりました」

「本当ですか?」

 リアンさんの目は真剣だった。

 俺は少しだけ困って、正直に答えた。

「努力します」

「そこは、はい、と言ってほしかったです」

「すみません」

 リアンさんは小さく笑った。

 その笑いで、やっと少しだけ息ができた。

 教会へ戻り、食事を済ませる。

 固いベッドに腰を下ろした時には、体の疲れが一気に来た。

 けれど眠る前に、確認しなければならないことがあった。

(リラ。今日の地図を出してくれ)

『表示します』

 視界に、北側外縁の地図が浮かぶ。

 村。

 道。

 灯籠。

 危険地点A。

 濁り狼が出た場所。

 リアンさんが狙われた位置。

 そして、森の奥へ続く黒い線。

(まだ残ってるな)

『はい』

(灯籠の異常は押し返したんじゃないのか)

『灯籠周辺の反応は低下しました。しかし、森の奥にある黒い点は消えていません』

 地図の奥。

 人の道から外れた場所。

 そこに黒い点が一つあった。

 昼間に見たものと同じだ。

 だが、次の瞬間、俺は眉を寄せた。

(リラ)

『はい』

(これ、場所がずれてないか)

『ずれています』

 黒い点は、昼間より少し南へ移動していた。

 森の奥から、川沿いへ。

 崩れやすい岸がある方角へ。

『移動速度は遅いです。ただし、自然な濁りの拡散ではありません』

(誰かが動かしている?)

『断定はできません』

 リラの声は静かだった。

 けれど、その静けさが逆に嫌だった。

『ですが、明日の朝まで放置した場合、川沿いの岸に到達する可能性があります』

 俺はベッドから立ち上がった。

 窓の外を見る。

 村の灯籠は、いつもどおり淡く光っている。

 人々はもう眠り始めている。

 誰も知らない。

 今日、押し返したはずの黒い点が。

 まだ森の奥で、ゆっくりと村の水辺へ向かっていることを。

『セイ』

(何だ)

『黒い点が、二つに分かれました』

 視界の地図で、黒い点が揺れた。

 一つだった反応が、細く裂ける。

 片方は森の奥へ。

 もう片方は川沿いの崩れた岸へ。

 まるで、俺たちがどちらを見るか試しているように。

 俺は息を止めた。

 その瞬間、遠くで、夜の川が小さく音を立てた。

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