硬いベッドのきしむ音で、目が覚めた。
天井は白い。木の梁がむき出しで、微妙に曲がっている。
昨日までいたはずの研究棟の天井とは、似ても似つかない。
(……よく寝たな)
体を起こした瞬間、まずそれを思った。
前の体なら、徹夜明けで床に寝たあとみたいに、腰や肩が悲鳴を上げていたはずだ。
今は違う。
十代の筋肉が、勝手にバネみたいに働いてくれる。
ただ、その内側を流れるものが、まだ落ち着かない。
血管とは別の、細い筋が全身を走っている感覚。
脈とは違う、さらさらとした流れが、胸から指先へ、足の先へ。
『マナの筋ですね。少しずつ馴染んできました』
頭の奥で、リラの声がした。
昨日から何度も聞いている声だが、まだ少しだけ、ほっとする。
「見え方は?」
『線、出しすぎると生活に支障が出そうです。今は“弱表示”にしています。必要なときだけ濃くしますね』
視界の端で、うっすらと青白い線が揺れた。
ベッドの脚から床へ、床から壁へ、窓枠へ。
教会の建物自体が、一本の回路みたいに組まれている。
(慣れないと、頭が疲れそうだな)
苦笑していると、扉の向こうで控えめなノックがした。
「セイくん、起きてる?」
リアンの声だ。
「起きてます」
返事をすると、扉が少しだけ開いた。
白いローブの裾を押さえながら、リアンが顔を覗かせる。
両手には木の盆。
温かいスープの匂いが部屋に流れ込んだ。
「おはよう。体はどう?」
「……だいぶ楽です。よく寝ました」
「よかった。神父さまも安心するよ」
リアンは簡素な机の上に盆を置き、俺の額にそっと手を当てた。
指先から、柔らかい光の線がすべり込んでくる。
体の中のマナの筋と、リアンの祈りの線が、一瞬だけ触れて、すぐ離れた。
『整っていますね。筋肉も内臓も健康そのもの。魂は、まあ、少し疲労気味』
(それは前の仕事の残りだな)
リラの分析に、心の中で肩をすくめる。
「熱もないし、マナの流れもきれい。……ねえ、セイくん」
リアンが、少し真面目な顔になった。
「今日、ギルドに行かない? セイくんのこと、ちゃんと話しておいたほうがいいと思うんだ」
「ギルドに」
「うん。身分っていうか……今は教会預かりの子どもって扱いだけど、このままだと、外を歩くにもいちいち説明がいるから」
それは、もっともだ。
この世界で正体不明のままうろつくのは、危険の線を自分で上げる行為だ。
「ギルドのマスター、ガランさんは、悪い人じゃないよ。昨日も、ちゃんと教会に相談してくれたし」
リアンの口調には、信頼がにじんでいた。
俺は、ひと呼吸置いてからうなずく。
「分かりました。お願いします」
「よかった。じゃあ、朝ごはん食べたら行こう」
パンとスープと薄いチーズ。
シンプルだが、空腹の胃には十分だった。
食べながら、昨日までのことを頭の隅で整理する。
世界は壊れた。
俺とリラは、観測者として拾われて、ここに落ちてきた。
村は濁りと魔物に囲まれていて、灯籠の輪がかろうじて守っている。
そして――外縁で、三つの光が濁りと戦うのを、俺だけが遠くから見た。
(あれが、この村の“前線”ってやつか)
今はまだ、口には出さないほうがいい。
線が見えすぎるのは、この世界では異物だ。
まず身を潜めて、味方と足場を確かめる。
それから、理(ことわり)層に触れていく。
それが、今のところの方針だ。
教会を出ると、朝の風が顔を撫でた。
谷底の村は、もう動き出している。
水場では女たちが桶を満たし、
畑では男たちが鍬を振るう。
子どもの声が、まだ眠たげな空気を突き抜けていく。
俺の目には、そのすべてが線でつながって見えた。
井戸の縁から家の中へ、薄い光の糸。
腰の水晶から腕へ、腕から工具へ。
家々の屋根の上を、灯籠の線がぐるりと回っている。
(……回路だな)
街全体が、一枚の基板みたいだ。
祈りとマナの線が、村じゅうを走っている。
『いい比喩ですね。祈り=電源、灯籠=電源ライン。家や人は、端末みたいなものです』
(端末はあんまり聞こえがよくないから、胸の中だけにしておく)
そんなことを考えていると、リアンが横で首をかしげた。
「どうしたの? 顔が難しくなってる」
「いえ。……線が、よく見えるので」
「線?」
危ない。
口が滑りかけたところで、リラが小さくため息をつく。
『“祈りの線がきれいだ”くらいにしておきましょう』
「リアンさんの祈りが、村じゅうに届いてるんだなって」
言い直すと、リアンは目を丸くして、それから照れたように笑った。
「そんな大げさなものじゃないよ。みんなの祈りが集まって、やっと灯籠が維持できてるんだもん。……でも、ありがと」
その笑顔にも、細い線が重なる。
胸の奥が、少しだけ軽くなった。
ギルドの建物は、村の中央にあった。
石と木で組まれた二階建て。
扉の上には、剣と盾と灯籠を組み合わせた看板。
近づくほどに、人とマナの線が濃くなっていく。
中には、昨日見たガランの太い線も感じられた。
「着いたよ」
リアンが扉を押す。
木のきしむ音と一緒に、ざわめきが押し寄せてきた。
武器の擦れる音、笑い声、紙をめくる音。
それらに混じって、かすかに血と鉄の匂いがする。
受付カウンターの奥に、ガランがいた。
大柄で、腕は丸太みたいだが、目だけはよく動く。
「よう、坊主」
俺を見るなり、口の端を上げた。
「教会のベッドはどうだ。硬かったろ」
「……はい。でも、よく眠れました」
「そうか」
ガランは頷き、カウンターの端に置いてあった帳面をめくった。
「リアン、話は聞いてる。こいつをギルドの“見習い”として扱いたいんだと」
「はい。教会で預かるにしても、ギルドのほうに顔と名前を通しておいたほうが、危険な線が減ると思って」
「……いい判断だ」
ガランの視線が、一瞬だけリアンに向かう。
その間に、俺は帳面を覗き込んだ。
名前の列。
その横に、簡単な職能とランク。
見習い、D、C、B、A、S。
「ギルドには、依頼をこなす“冒険者”ってのがいる。正式な冒険者は、下からD・C・B・A・Sの五段階だ」
ガランの説明は簡潔だ。
「見習いってのは、その手前。村の雑用を手伝ったり、外の仕組みを覚えたりする段階だな。お前はしばらく教会預かりだが、こっちの帳面にも名前を載せておく。身元保証人はリアン。文句あるか」
「ありません」
文句が言える立場でもない。
ガランが羽根ペンを差し出してくる。
「名前を書け。ここだ」
指さされた欄に、「セイ」とだけ書く。
姓を書く必要はない。
この世界の誰も、黒川という名前を知らない。
インクが紙に染み込んだ瞬間、細い光の線が文字から立ち上がった。
帳面の背からギルドの壁へ、すっと伸びていく。
(……登録の線、か)
『はい。最低限の身元情報と、簡単な保護祈念ですね』
リラの声に、内心でうなずく。
教会の祈りとギルドの回路が、一つ繋がった。
これで、少しは動きやすくなる。
ガランが帳面を閉じたときだった。
ギルドの扉が、乱暴に開いた。
「ただいま戻りましたー!」
明るい声と一緒に、外の光が差し込む。
血と獣の匂いが、強くなる。
三人だ。
前を歩くのは、短い槍――いや、細身の剣を肩に担いだ少女。
その後ろに、弓を背負った青年と、瓶だらけの小さなポーチを揺らす少女。
腰の水晶から、足元へ、腕へ、武器へ。
三人それぞれのマナの筋が、くっきりと見える。
(……あいつらだ)
昨日、外縁の灯籠の向こうで、濁りとぶつかっていた三つの光。
遠くからでも分かった、揃った動き。
今は目の前にいる。
「おかえり、《リュミエルの灯》」
受付嬢が笑顔で声をかける。
《リュミエルの灯》。
パーティ名か。
「ただいま。濁り狼、三。魔石も回収済み」
剣を担いだ少女――アヤが、腰の袋を持ち上げた。
袋の中で、鈍い光が転がる。
濁りを浴びた獣の核。
弓の青年――コルトは口数が少ないが、動きが静かだ。
視線だけが、周囲をよく見ている。
瓶の少女――ミナは、ぽん、と受付に小さな瓶を置いた。
「爆薬、残り三本。補充お願いねー」
軽い口調の奥に、手際の良さが滲む。
三人のマナの流れが、俺の目には輪のように見えた。
前に立つアヤの線が、地面にしっかり刺さる。
後ろのコルトの線は、細く遠くまで伸びる。
ミナの線は、ぐるぐると渦を巻き、三人を包む。
そこに、リアンの祈りの線がそっと触れた。
四つの流れが、一瞬だけきれいに噛み合う。
(……だから《灯》か)
春先の灯籠みたいに、ちょうどいい明るさの輪。
無駄がなくて、温度がある。
『きれいですね』
(俺も、早くあいつらみたいに、自由に“冒険者稼業”ができる日が来てほしい)
俺が見惚れていると、ミナがこちらを見て、ぱっと顔を輝かせた。
「あ、知らない子。ガランさーん、新入り?」
「まだ正式じゃねえ。教会預かりの見習いだ」
ガランが説明すると、アヤがちらりとこちらを見た。
鋭い目だが、刺すような敵意はない。
危険度を測る目だ。
「外の子?」
「そうだ。昨日拾われた」
拾われた、という言い方に、少しだけ胸がちくりとする。
だが、事実でもある。
アヤはそれ以上は聞かず、ガランのカウンターへ報告書を出した。
ギルドのざわめきの中で、濁り狼の位置や数、灯籠からの距離が淡々と整理されていく。
『濁り狼三。灯籠ラインから十数歩。結界の外縁ぎりぎりまで寄ってきてますね』
(村の外側の線が、薄くなってるってことか)
そのやりとりの最中、ガランがこちらを振り向いた。
「ちょうどいい」
太い指で、俺と《灯》の三人、それからリアンを順にさす。
「午後、“外縁の見回り”を出す。アヤたち《リュミエルの灯》とリアンに、こいつを一緒に連れて行ってほしい」
「えっ」
声を上げたのは、リアンだ。
「ちょ、ちょっと待ってガランさん。セイくん、まだ来たばっかりでしょ?」
隣でミナも眉をひそめる。
「そうそう、その子いきなり外縁はきついって。まだ村の中もろくに歩いてないでしょ?」
「そう。外縁は、簡単な場所じゃない」
アヤも眉をひそめる。
ガランは、両手を軽く上げて二人を制した。
「分かってる。だから“村境まで”だ。灯籠の輪から、外へ一歩も出さねえ。戦闘になったら前には出さない。 見るのは“線”だけだ」
線、という言葉に、俺はわずかに背筋を伸ばした。
「こいつには、見えない道を嗅ぎ分ける勘がある」
ガランの目が、一瞬だけ俺の目を捉える。
昨日の話だけで、そこまで言うか、とも思う。
けれど、この男は感覚のいいほうだ。
「村の外側の線を、今のうちから覚えさせる。どう危険で、どこまでなら“まだ戻れる”か。それを知ってる奴が一人増えるだけでも、村の線は厚くなる」
リアンは唇を噛んで、俺を見た。
「……セイくんは、どうしたい?」
選択を、俺に返してくる。
ここで「行きたくない」と言えば、安全圏にはいられる。
でもそれは、この世界を理解する一歩を、自分から蹴ることでもある。
(前の世界で俺は、“理解すること”から逃げなかった)
崩れていく理(ことわり)層を、最後まで見届けると決めた。
なら、ここでも同じだ。
「条件付きなら、行きたいです」
俺ははっきりと言った。
「外に出ないこと。戦闘で前に出ないこと。その線を守るって約束なら」
アヤが、少しだけ目を細める。
「……線、ね」
彼女はガランと視線を交わし、それからゆっくりとうなずいた。
「分かった。“村境まで・前に出さない”って線、引いたのはガランだからね」
「もちろんだ」
ガランは笑う。
「俺が線を引いて、お前らが動く。そんでこいつは、その線を覚える。それでいい」
リアンも、最後には頷いた。
「じゃあ、祈りの準備もしておく。外縁は、灯籠の祈りも確認したいし」
話がまとまったところで、ギルドのざわめきが少しだけ変わった。
今日の午後には、村の外側をなぞる小さな一行が出る。
その中に、自分の名前が入っている。
俺は、小さく息を吐いた。
この世界での最初の仕事が決まった。
村の外側の線を見に行く仕事。
危険の濃いほうへ、戻れる道を探しに行く。
それが、俺の役目の始まりになる。
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