谷底の村へ向かって、荷車はゆっくり転がっていった。
……はずだったが、その前に一度だけ止まった。
ガルドが足をぐっと踏み込み、荷車を止めた。
がらり、と車輪の音が途切れる。
(どうした?)
問いかけるより先に、耳が勝手に別の音を拾った。
ずっと遠く。
谷を挟んだ別の斜面のあたり。
金属同士がぶつかる甲高い音。
短く切れる息。
土を蹴る足。
三人分。
呼吸のリズムが違う。
ひとつは前に出る癖。
ひとつは一歩引いて周りを見る癖。
ひとつは間合いを測り続ける癖。
そして、もうひとつ。
低く濁った、嫌なうなり声。
喉と肺の形がおかしい。
人じゃない。
『戦闘音です』
リラが淡々と言う。
『距離三百メートル前後、外縁の灯籠列付近。三対一。大型寄り』
ガルドは前方をにらんだまま、眉間に皺(しわ)を寄せている。
多分、かすかな光は見えている。
だが、音までは届いていない。
遠くの斜面で、白いものが一瞬だけ弾けた。
祈りの光だ。
細い線が、灯籠から走っていく。
誰かの声に応じるように、濁ったもやへ突き刺さる。
その横を、矢が一本、風を切って抜けた。
軌道がきれいだ。
線の上をなぞるみたいに、濁りと肉の境目に刺さる。
最後に、前へ踏み込む足音がひとつ。
斜面を嫌がらない足の運び。
重心がぶれない。
剣が、濁った塊と灯りのちょうど間を通って抜けたのが、線で分かる。
濁りのうなりが、ぷつりと途切れた。
代わりに、灯籠の光が少しだけ太くなる。
『討伐完了。中堅以上ですね』
(……見えてたの、俺だけか)
ガルドが小さく息を吐いた。
「あいつら、今日も外でやってやがるか」
ぼそりとつぶやいて、俺には向き直らない。
「心配するな。村の外は、外縁の連中とギルドの仕事だ」
そう言ってから、ガルドは荷車の取っ手を握り直した。
荷車は再び動き出す。
谷底へ下りていく途中、道が少し広くなった場所に、簡単な柵と木の柱が立っていた。
柵の脇には、槍を持った青年が一人、腰を下ろしている。
見張りというにはのんびりしているが、目だけはこちらをよく見ていた。
「戻ったのか、ガルドさん」
青年が立ち上がり、荷車と、その脇にいる俺を見比べる。
「おう。いつもの荷と……拾い子ひとりだ。教会へ回す」
「拾い子?」
青年は一瞬だけ眉をひそめたが、
「なら、あとでギルドに話が行くだろ」
それ以上は何も聞かず、柵を少し開けるだけにとどめた。
荷車が柵を抜け、灯籠の輪の内側へと入っていく。
灯籠の輪をくぐるとき、空気が一段やわらかくなった。
さっきまで肌に張り付いていたざらつきが、少し後ろへ下がる。
光の線が、村の輪郭に沿って濃くなる。
エルディア村。
谷底に広がる、小さな集落。
崖の斜面にぎっしり張り付くように家が並び、その周りを、灯籠の光がぐるりと囲んでいる。
家ごとに、小さな祠や水晶の灯り。
そこから伸びるマナの線が、地面の下で結び合ってひとつの輪になっていた。
(……配線図か何かかよ)
村人たちがこちらを見る。
槍や刃物を腰に下げている者が多い。
腕や腰の水晶から、細い光が体に流れ込んでいるのが見える。
それが骨や筋肉をなぞって、指先や足先へ広がっていく。
俺だけ、世界の下書きを覗き見しているみたいだ。
居心地が悪い。
『今見えているのは「マナ層」の流れです』
リラが説明を添える。
『この村は、灯籠と家と人をひとまとめにして、「ひとつの祈り回路」にしていますね』
(こっちも、理(ことわり)をいじってるってことか)
『いじる、というより、祈りで触っている感じです』
『ただし――』
リラの声が一瞬だけ低くなった。
『濁りとの境目、かなりギリギリです』
さっき見た黒いもやが、谷の端のあちこちに薄くひっかかっている。
灯籠の光が強いところは押し返している。
弱いところは、じわじわと侵食されていた。
村人たちは、それを直接は見ていない。
けれど、空気で理解しているのだろう。
目つきも歩き方も、「いつでも槍に手を伸ばせる」ように慣れている。
「ガルド、その子は?」
道端の女が声をかけてきた。
腰に布で包んだ水晶が巻きつけてある。
そこからの光が、家の方へ薄く伸びていた。
「拾い子だ。外縁で寝てやがった」
「外縁で? 加護なしで?」
女は目を丸くし、それから眉間に皺を寄せる。
「そんなの、理(ことわり)に逆らってるみたいな話じゃないか」
理(ことわり)。
その言葉を、この世界でも聞くとは思わなかった。
「教会に回す」
ガルドは短く言った。
「神父様かリアンが見るだろ」
「そうしておくれ。理(ことわり)をこね回したものは、昔みたいに世界を壊すって、じいさんがよく言ってたよ」
女は胸の前で印を切る。
俺の方をちらりと見てから、視線をそらした。
理(ことわり)をこね回すと世界が壊れる。
それは、俺たちの世界では「実話」だ。
ここでは、多分「教え話」だ。
『この世界でも、理(ことわり)に触れすぎることを怖がっているみたいですね』
(仕事柄、耳が痛い)
荷車は村の中央の広場で止まった。
石を敷き詰めた空間の一角に、ひときわ大きな建物がある。
太い梁と石の土台。
入口には剣と灯りを組み合わせた紋章が掲げられていた。
「あれがギルドだ」
ガルドが顎で示す。
「冒険者ギルド。村の外へ出るやつは、みんなあそこを通る」
中に入ると、ひんやりした空気と、人の気配が押し寄せてきた。
広間には、掲示板とカウンター。
カウンターの奥には、水晶板がはめ込まれた壁。
そこから、細い光の線が受付の女の手元へと伸びている。
受付の女――リーナが、帳面から顔を上げた。
「ガルドさん、おかえりなさい。……その子は?」
「外縁で拾った」
ガルドは短く答える。
「祠の近くで倒れてた。記憶はあいまいだそうだ」
リーナの視線が俺を測る。
服装。
傷の有無。
足元の汚れ。
そして、目。
俺は、できるだけ「疲れた子ども」に見えるように立っていた。
背筋を伸ばしすぎない。
目を泳がせすぎない。
大人を見過ぎない。
「名前は?」
「セイです」
「出身は?」
「……よく、覚えてないです」
リーナは小さく息を吐いた。
「最近、拾い子が増えてる気がするわね」
「濁りのせいだろ」
ガルドが肩をすくめる。
「支部長はいるか?」
「いる。上に通す?」
「頼む」
二階の奥の扉の前で、ガルドが足を止めた。
重そうな木の扉だ。取っ手には、何度も握られた跡が残っている。
ガルドが軽くノックする。
「ガラン。拾い子を連れてきた」
「入れ」
低い声が、扉の向こうから返ってきた。
ガルドが扉を押し開ける。
俺たちは二階の奥の部屋に通された。
中は、地図と書類と、棚と、本で埋まっていた。
壁にかけられた剣は、刃こぼれが多い。
使われた武器だ。
机の前にいた男――ガランは、振り返りもせず書類に目を落としていた。
がっしりした体格に、短く刈った髪。
歳は四十代後半か。
目だけが若い。 状況を測る目だ。
ガルドが簡単に状況を説明する。
外縁で拾ったこと。
記憶があいまいなこと。
濁りに触れた様子はないこと。
ガランは黙って聞き、最後に俺を見た。
視線に重さがある。
飾りのない秤に乗せられたような気分だ。
「セイと言ったな」
「はい」
「何か、変な夢は見たか」
変な夢、どころではない。
世界が崩れるところを、設計図側から全部見てきた。
「……あんまり覚えてません」
正直に言えば、ここで終わる。
俺は、この世界から弾き出されるか、最悪別の“処理”をされるだろう。
ガランの目がわずかに細くなる。
嘘を見抜く目ではない。
「危険かどうか」を測る目だ。
しばらく沈黙が続いた。
やがて、ガランは机の上の木札を指先で叩いた。
そこから薄い光が立ち上り、壁の水晶板へと伸びる。
「素性の知れない子どもを、この村で放っておくわけにはいかん」
低い声が部屋に響く。
「だが、理(ことわり)の外側に踏み込んだものを野放しにもできん」
理(ことわり)の外側。
(俺がこの村で宙ぶらりんな立場なのを、別の言葉に言い換えてチクリと指摘してくる)
「まずは教会で診てもらえ」
ガランは結論を告げた。
「魂と体の線を見てもらう。何かあれば、教会からこっちに話が来る」
「分かった」
ガルドがうなずく。
ガランは、俺にだけ視線を戻した。
「いいか、セイ」
「はい」
「ここは祈りで成り立っている村だ。理(ことわり)をねじ曲げる真似は、誰であれ歓迎されん」
言葉は穏やかだが、その裏に硬い線がある。
「お前が何者であっても、村の線を切るなら止める。だが――」
一拍置いて、口調が少しだけ柔らかくなった。
「生きる線を選ぶなら、俺たちは手を貸す。覚えておけ」
俺は、素直に頭を下げた。
「……はい」
ギルドを出て、今度は教会へ向かう。
広場の端、灯籠の輪の内側に、白い建物が立っていた。
尖った屋根と、丸い窓。
入口の上には、祈りの印と水晶がはめ込まれている。
扉を開けると、涼しい空気と香の匂いが流れてきた。
中は広く、中央に長い椅子。
奥には祭壇と大きな水晶。
そこから、村の外周へと無数の線が伸びていた。
ちょうどそのとき、一人の少女が祭壇の前に立っていた。
肩までの髪を後ろでまとめ、白い服の上から淡い色のローブを羽織っている。
両手を胸の前で組み、静かに目を閉じていた。
祈りの言葉は、俺には聞き取れない。
けれど、線が動く。
祭壇の水晶から立ち上る光が、村中の灯籠へ一斉に広がる。
家の祠。
外縁の灯り。
畑の隅の小さな石。
すべてが同じリズムで脈打つ。
(……これが、この世界の“祈りインターフェース”か)
「リラ、祈りって、どうやって“届いてる”?」
心の中で問いかけると、リラが一瞬だけ黙った。
『……少し待ってください。また関連フォルダのアクセス権確認が走りました』
(また例のフォルダか)
数秒後、頭の奥で小さな表示が浮かぶ。
《ACCESS PERMISSION:祈り関連フォルダ LIMITED》
『はい、今の質問で“祈りの届き方”に関するフォルダが限定開放されました』
「じゃあ、俺が何も聞かなかったら、知らないままのこともある?」
『時間とともに自動で共有される情報もありますが、効率は良くありません』
『セイの“疑問”は優先度ラベルとして扱われるので、先に整理されて降りてきます』
「だったら、これからも遠慮なく聞くさ。分からないまま進むのは、仕事柄、性に合わない」
『推奨方針です。セイが質問して、わたしが探して要約する』
「いいチームだな」
『はい、自覚はあります』
軽口を交わしつつも、祈りの光は止まらない。
『では、本題に戻します。祈りがどう“届いているか”ですが――』 要約すると──祈りの形をした命令信号が、マナ層を経由して理(ことわり)層に届いています』
祭壇の水晶から立ち上る光が、村中の灯籠へ一斉に広がる。
家の祠。
外縁の灯り。
畑の隅の小さな石。
すべてが同じリズムで脈打つ。
『この教会と祭壇の水晶は、そのためのインターフェースです。ここで組まれた“お願い”が、村じゅうの灯籠回路に流れ込んでいます』
(つまり、あの水晶が、この世界の「操作パネル」ってわけか)
『はい。祈りが命令信号になって、マナ層を経由して理(ことわり)層に届いています。
ただし詳細仕様は、今の権限では黒塗りですね』
水晶の光は少し落ち着き、村じゅうの線だけがゆっくりと脈を刻み続けていた。
少女がゆっくり目を開ける。
こちらに気づいて、微笑んだ。
「いらっしゃい」
声は澄んでいて、よく通る。
「ガルドさん、その子が噂の拾い子?」
「ああ」
ガルドが頷く。
「支部長の指示だ。魂と体を見てやってくれ」
少女――リアンは、俺の前まで歩いてきた。
距離を詰めすぎない。
けれど、逃げ道を塞ぐほどでもない絶妙な位置だ。
「セイ、くん?」
「はい」
「手、いい?」
差し出された手に、自分の手を重ねる。
リアンの指先が、俺の手の甲を軽くなぞった。
その瞬間、細い光の線が、俺の腕を通って胸へと流れ込んでいくのが分かった。
自分の中身を、他人に覗かれているような感覚。
居心地が悪い。
『簡易診断です。生命力とマナの流れをチェックしています』
(変なもの、見つかるか)
『理(ことわり)層までは触れていません。落ち着いて』
リアンは目を閉じたまま、少しだけ首をかしげた。
「ふしぎ」
ぽつりと言う。
「体は、すごくきれい」
「きれい?」
「傷も毒もないし、骨も筋も、まっすぐで強い線」
リアンは、俺の胸元あたりを指でなぞる。
「なのに、魂のほうが、ちょっとくたびれてる」
図星だ。
中身は中年だし、世界が崩れる瞬間まで働いていた。
「でも、壊れてはいない」
リアンは目を開け、柔らかく笑った。
「少し休めば、ちゃんと歩ける。……そういう線をしてるよ」
「診れるのか、そんなもん」
ガルドが感心したように言う。
「祈りとマナの線を、ちょっとね」
リアンは肩をすくめる。
「しばらく教会で寝てもらおうかと思うんだけど、いい?」
「助かる」
ガルドがほっと息を吐いた。
「外縁で倒れてたって聞いたときは、どうなるかと思ったぞ」
リアンが俺の方を見る。
「セイくん」
「はい」
「ここでは、変な理(ことわり)の話はしないほうがいい」
笑っているのに、目は真剣だ。
「理(ことわり)のことは、神さまの仕事。人が触りすぎると、世界がゆがむって、昔から言われてるから」
それは、半分は正しいし、半分は遅すぎる。
俺たちはもう一度、世界をゆがませて壊した。
「……分かりました」
俺は素直にうなずいた。
「ここでは、あまり変なことはしません」
「“あまり”?」
リアンがくすっと笑う。
「じゃあ、“危険なほう”はちゃんと止めるから。疲れたら言ってね」
寝床と、簡単な食事が用意された。
教会の奥の、小さな部屋。
硬いベッドと、薄い毛布。
それでも、外縁の土よりはずっとましだ。
横になり、天井を見上げる。
木の板の隙間から、灯籠の線が透けて見える。
村全体が、ひとつの回路としてゆっくり脈打っていた。
『この世界も、だいぶ限界に近いですね』
リラの声が、不意に静かになる。
『濁りの分布と灯籠の出力を合わせて見ると、十数年単位で不安定化が進んでいます』
(うちの世界みたいに、一気に崩れる?)
『そこまではまだ。祈りのフィードバックがあるぶん、時間は稼げている』
『でも、バグの種類が違う。前回とは別の壊れ方をしそうです』
俺は目を閉じた。
暗闇の向こうに、細い線が無数に浮かぶ。
村の灯り。
外縁の祠。
さっき遠くで見た、剣と祈りの線。
そして、その間をぬって広がる黒いノイズ。
(また、世界が壊れるかもしれない)
そう思った瞬間、胸の奥で何かが固まった。
逃げたい気持ちは、もちろんある。
でも、俺は一度、それから逃げずに見届けると決めた。
理(ことわり)が崩れる瞬間まで、目をそらさないと。
なら、今も同じだ。
(まずは、ここで身を潜める)
(誰が敵で、誰が味方で、世界がどこから崩れかけているのか)
(この村から、もう一度理解を始める)
教会の鐘が遠くで鳴った。
村のマナの線が、ゆっくりと一度だけ強く脈打つ。
俺は、硬いベッドの上で小さく息を吐いた。
この世界での最初の線を、自分の中に引いた気がした。
――理(ことわり)を恐れる村で、理(ことわり)を隠して生きていく。
その決意を抱えたまま、俺はしばらく目を閉じていた。
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