まぶたを持ち上げた瞬間、世界がひっくり返った。
空が青い。
青すぎるくらい、青い。
雲が近い。
ビルも電線もなくて、ただ広い。
(……なんだこれ)
さっきまで、ガラスの向こうに夜景が広がっていたはずだ。
今、視界の端に見えるのは、長く伸びた草と、土の道だけ。
頬に当たる風が冷たい。
鼻の奥には、相変わらず湿った土と草の匂い。
それに、かすかに獣の匂いも混じっている。
『生き物由来の揮発成分ですね。前の世界で言う犬や家畜に近い系統です』
(……やっぱり獣がいる世界か)
「お、起きたか」
頭の上から、急に低い声が降ってきた。
「……おい。坊主。こんなところで何やってやがる」
さっき意識がぼやけていたときに聞こえたのと、同じ低い声だ。
距離は近い。
俺のすぐ頭上、道の上。
そちらを向こうとして、まず自分の体に違和感を覚える。
軽い。
背中から上半身を起こそうとしただけで、筋肉が素直に付いてくる。
四十七歳の体なら、まず腰が悲鳴を上げる動きだ。
そうならない。
重さが、足りない。
手を見た。
細い。
日焼けしているけれど、皺(しわ)は少ない。
節の浮いた中年の指じゃない。
十代半ばくらいの、少年の手だ。
「……は?」
自分の声も、軽い。
喉が高い位置にあるような、変な感覚。
『声帯の構造が変わっています』
頭の中で、聞き慣れた声がした。
リラだ。
「……リラ」
『はい。接続は良好です』
ほっとした。
世界がどれだけ変わろうと、こいつが隣にいるだけで、少し現実に足がつく。
「坊主、大丈夫か?」
声の主が、覗き込んでくる。
年の頃は四十代くらい。
日に焼けた肌に、無精ひげ。
厚い腕。
腰には、使い込まれたナイフ。
何より、目がよく動く。
俺のことも周囲の草むらも、素早く見ている。
「ここで寝てると、ほんとに風邪引くぞ」
「あ、えっと……すみません」
条件反射で謝ってから、自分でも苦笑しそうになる。
状況が分からないときは、まず低姿勢。
研究職でも異世界でも、多分そこは変わらない。
『黒川さん、現状把握を優先しましょう』
(そうだな)
男の足元には、木で組まれた荷車があった。
丸太や麻袋が積まれている。
その車輪が、さっき俺が聞いた音の正体だろう。
……音。
意識を向けた瞬間、世界が一段うるさくなった。
近くの草の葉が、風に擦れる音。
遠くで流れる水の音。
もっと遠くの方で、何かが鳴いたような声。
全部が、一度に、同じ大きさで耳に押し寄せてくる。
(多すぎる)
顔をしかめたところで、リラの声が割り込んだ。
『聞き耳が増幅状態です』
(聞き耳?)
『理(ことわり)層から降りてくるときに、感覚層との接続が開きっぱなしになりました』
『今は、マナの揺れを全部、音として拾ってしまっている状態です』
(そりゃ、うるさいわけだ)
『フィルターをかけます』
リラの言葉と一緒に、音がすっと整理された。
近い音は近く。
遠い音は遠く。
風のざわめきと、水の音と、鳥の声が、それぞれ違う距離に並び直す。
その一方で、目の前の男の声だけは、妙にはっきり聞こえていた。
「おい、本当に大丈夫か?」
喉の震え方。
肺の空気の入れ方。
足の位置。
そういうものが、全部まとめて頭に入ってくる。
(……これ、俺だけか)
『そうです』
『ここまで細かく拾えているのは、今のところあなたとわたしだけです』
(やっぱりか)
変なところで納得しながら、男の方を見上げた。
「すみません。ちょっと、頭がぼんやりしていて」
できるだけ普通の少年っぽい声を意識する。
男は俺の様子をじろりと見て、ふんと鼻を鳴らした。
「まあ、拾い子って線だな」
「ひろいご?」
「親とはぐれたか、捨てられたか、森で寝てたか」
「どっちにしても、外縁でこんな格好で寝てるようなガキを、このまま放っとくわけにもいかねえ」
外縁。
聞き慣れない単語が、耳の中に引っかかる。
『翻訳済み用語です』
(ああ、さっきのことか)
リラが言っていた「理の自動調整システム」だかなんだかが、俺の言葉をこの世界の言葉に置き換えている。
それは便利だが、裏返せば、俺の言動も丸裸ということでもある。
「ここは……どこですか」
慎重に尋ねる。
「どこ、って……」
男は頭をかきながら、少しだけ眉をひそめた。
「エルディア村の外縁だよ」
「村のすぐ外。灯籠の輪のちょっと外側だ」
灯籠。
輪。
また新しい単語だ。
視界の端で、何かが光った。
振り向くと、土の道の脇に、小さな石の祠がいくつか並んでいる。
その上に乗った水晶から、淡い光が湧き出して、地面へ吸い込まれていた。
光は、土の中で細い線になり、道沿いに伸びていく。
ずっと先まで、点々と続いている。
(……通り道)
目で見ているのに、脳が「配線図」だと認識する。
「リラ。この光の線、何を流してる?」
問いかけた瞬間、頭の内側で、何かがカチリと噛み合ったような感触が走った。
(……今の“カチリ”は何だ)
『……少し待ってください。関連フォルダへのアクセス権を確認中です』
(関連フォルダ? なんだそれ)
『前の世界が崩れる直前にもありました』
『黒川さんの疑問がトリガーになって、その質問に関する情報がまとめて保存されているフォルダが開きます。そのときの感覚です』
(質問しただけで、上から情報が降ってくるってわけか)
『はい。わたしは、それを受け取って要約して渡す役割です』
《ACCESS PERMISSION:限定開放》
『要約すると──マナの流れです』
マナ。
この世界の燃料の名前くらいは、すでにデータとしてもらっている。
前の世界の用語に引き直すなら、理(ことわり)が設計図で、マナはそこを走る燃料だ。
今見えている光の線は、その燃料ラインが地面の中に可視化されたもの、というわけか。
リラの答えは、あのときと同じ少し硬い声色だった。
さっきよりも、説明の密度が明らかに増えている。
『今開いたフォルダによれば、祠や灯籠が“ハブ”で、村の周りに線を張っている構造ですね』
『理(ことわり)層を意識して見るなら、保護回路です』
回路。
つまり、結界。
道の先――森の方を見る。
そこには、黒いもやが漂っていた。
霧とは違う。
煙とも違う。
マナの光の線をノイズだらけにしたような、バグの塊。
(あれは?)
『そちらも、今の質問で関連フォルダが開きました』
リラの声が、少しだけ硬くなる。
『濁りです』
『この世界の“バグ”』
『本来の理(ことわり)から外れたマナの偏り――バグデータの塊だと定義されています』
そこに触れた光の線は、ところどころで途切れかけている。
『マナでできた異常。放っておくと、理(ことわり)を食い荒らします』
(それが、村のすぐ近くまで来てるわけか)
見た目以上に、ここは危ない場所らしい。
「おい、そっち見るな」
男――さっき自分で「拾い子って線だな」と言った男が、俺の視線を追って顔をしかめた。
「森の縁は濁りが出る」
「灯籠の光が届かねえ場所に近づくな。ああいう黒いのは、村でも厄介なんだ」
言い方は慣れている。
けれど、声の底にある緊張は誤魔化せていない。
この村にとって、「濁り」は日常の一部でありながら、やっぱり“怖いもの”なのだろう。
「……分かりました」
素直にうなずくと、男は少しだけ警戒を解いたように見えた。
「で、お前、名前は?」
「えっと……」
口を開きかけて、言葉が止まる。
黒川誠一。
この体には、どう考えても似合わない名前だ。
ここで本名を名乗る必然性はない。
むしろ、邪魔だ。
(リラ)
『はい』
(名前、どうする)
『こちらで候補をいくつか――』
「……セイ、でいいです」
自分で言っていた。
誠一から一文字抜いただけの、短い呼び名。
男が眉をひそめる。
「セイ、ね」
何か言いかけて、やめた。
「まあいい。俺はガルドだ」
男――ガルドは、荷車の取っ手を軽く持ち上げる。
「ガルドさん、ですか」
「“さん”なんてつけなくていい」
「とりあえず、村までは連れていく」
そう言って、荷車の横を顎でしゃくった。
「乗れ」
「え、いいんですか」
「ここに放っとく方が面倒だ」
「村のギルドにでも話を通して、教会に預けちまうのが一番早い」
ギルド。
教会。
この世界での、仕事と祈りの窓口。
さっき、リラからもらったこの世界の概要データにも出てきた単語だ。
「ありがとうございます」
素直に礼を言って、荷車の後ろに手をかける。
そこで、もう一度、自分の体のことを思い出した。
試しに、少しだけ力を入れてみる。
荷車が、するりと持ち上がった。
積まれている丸太と荷物の重さを全部合わせても、四十七歳の体にはかなりきついはずだ。
それが今は、「ちょっと力を入れた」にしか感じない。
(……ほんとに、チートだな)
心の中だけでぼやく。
『筋力は旧世界のトップアスリート以上』
『そこにマナによる補助も少し入っているので、無茶をしなければかなり丈夫です』
(“無茶をしなければ”な)
『それと、ひとつだけ注意があります』
(まだあるのか)
『この世界は、祈りをとても重んじる文化で回っています』
『詳しい仕組みは、教会やギルドを実際に見てから整理してお話ししますが……ひと言で言うなら、理由の分からない強さや、他人の常識から外れた振る舞いは警戒されやすい、ということです』
(つまり、“訳の分からない強さをいきなり見せるな”って話か)
『はい。黒川さんの能力は、少しずつ。周囲が受け止められる範囲で見せていくのが安全です』
(……やろうと思えば、俺ひとりでかなりどうにでもできる)
そう分かってしまうからこそ、背中が少し冷える。
世界が崩れる直前、|理《ことわり》のざわめきの中で、リラは「この世界は祈りを重んじる文化で回っている」とだけ言った。
なら、筋の通らない強さは——理解される前に、疑われる。
(……つまり、あんまり派手にやるなってことだな)
そんな但し書きが付いている以上、調子に乗るのはやめておくべきだろう。 力を抜き、素直に荷車の横に腰をおろす。
ガルドが取っ手を掴み、歩き始めた。
木の車輪が、土の道をゴロゴロと転がる。
それに合わせて、風景もゆっくりと動いていく。
道の脇の祠。
その上の水晶から伸びる光。
森の縁の黒いもや。
すべてが、線で繋がって見える。
『マナのネットワークです』
リラが、視界の端にうっすらと図を重ねてくる。
『祈り――この世界で言う“祈”がトリガーになって、マナが流れ、理(ことわり)層にアクセスしている』
『あなたは、理(ことわり)側から見てしまっている』
(つまり、また余計なものを見てるわけだ)
自嘲気味に思いながら、祠から村の方へ伸びる線を目で追った。
その先に、淡い光の輪が見える。
等間隔に並んだ灯籠。
そこから立ち上る光が、村をぐるりと囲んでいる。
「……あれが、灯籠の輪ですか」
ぽつりと口にすると、ガルドが振り返った。
「お、知ってるのか」
「いえ、なんとなく」
ごまかすように笑う。
「祠から光が出てて、それが輪になってるなって」
ガルドは少しだけ目を細め、それから前を向いた。
「まあ、見ての通りだ」
「灯籠が村の周りに輪を作ってる。あの光の中は、そう簡単には濁りが入ってこねえ」
「入ってこない“はず”なんだがな」
最後の一言は、小さく、重かった。
何か、あったのだろう。
それはきっと、俺がこれから関わることになる「問題」の一つだ。
荷車が、光の輪に向かって進んでいく。
灯籠のすぐ手前で、空気が変わった。
それまで肌に張り付いていたざらざらした感覚が、少しだけ薄くなる。
喉の奥の乾いた感じも、わずかに和らぐ。
光の輪の内側は、確かに“守られている”のだと、体が理解した。
同時に――
視界の中の線が、一段濃くなった。
家々の輪郭から伸びるマナの筋。
人の体を巡る細い光。
灯籠から家々へ、教会らしき建物へと繋がる太い線。
(……見えすぎだろ、これ)
『見えすぎです』
リラが即答する。
『ですから、当面は“勘がいい”“体の感覚がいい”くらいの表現でごまかしてください』
(理(ことわり)層が見えてます、なんて口が裂けても言えないな)
『言った瞬間に、この世界の“理(ことわり)を恐れている人たち”にマークされますから』
ガルドが、灯籠の輪を一歩越えた。
荷車も、俺も、その中に入る。
村の音が近づいた。
子どもの笑い声。
誰かが何かを叩く音。
水を汲む音。
さっきまで遠くにあった生活の音が、一気に身近になる。
俺は、小さく息を吐いた。
(ここからだ)
世界が変わった。
体が変わった。
名前も変えた。
その全部を抱えたまま、俺はこの村で生きることになる。
まずは――
(目立たないこと)
(そして、“危険の源”がどこにあるのかを知ること)
心の中に、二本の線を引く。
一つは、「自分の異常を隠すための線」。
一つは、「この村の危険を測るための線」。
荷車が村の中心へ向かっていく。
(まず“普通”を演じる。危険を拾い、引ける線を増やす)
そう決めた瞬間、灯籠の光が――風とは違う揺れ方をした
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