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本編第1章 理が崩れた日、線を引く少年が生まれた

第7話 昇格の条件

昇格の条件 本編
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 その夜、教会のベッドで、俺はなかなか目を閉じられなかった。

『緊張していますか?』

(そりゃ、するだろ)

 見せるところと、隠すところ。

 明日のことを考えるたび、頭の中で何度も同じ場所に線を引き直してしまう。

 窓の外では、灯籠の光がゆっくり揺れていた。

 翌朝。

 ひんやりした空気の中、俺は“今日の装備”のままギルドの裏庭へ向かった。

 簡素な革鎧。肩当て。腰の短剣。

 昨日と同じ重さを身につけているだけなのに、今日は少しだけ体に張り付いて感じる。

 ギルドの裏庭は静かだった。

 砂地の上に、木製の人形と杭が並んでいる。

 その向こうで、ガランさんが腕を組んで待っていた。

「来たな」

「はい」

 短く返事をすると、ガランさんは顎で手前を示した。

「そこに立て。昨日の崖で、お前がどんな足で動いたのか、まず確かめる」

「足、ですか」

「ああ。刃はその次だ」

 声は落ち着いている。

 けれど、目だけはいつもより細かく俺を見ていた。

(昨日の一歩、やっぱり見逃してもらえないよな)

『証言も集まっているはずです。アヤさんたちから』

(だよな……)

 俺は言われた通り、裏庭の中央に立った。

 足元の砂が、乾いた音を立てる。

「まずは昨日と同じ装備で動け」

「分かりました」

「その場で、前後左右に一歩ずつ。普段通りでいい」

 右足を前へ出す。

 踵から強く落とさず、足裏全体で砂を踏む。

 土に引っかからないように、重心だけを前へ滑らせる。

 次に後ろ。

 右足をわずかに引いて、左足は半歩だけ追わせる。

 すぐ前へ戻れるように、逃げ道を残す。

 右、左。

 腰の向きは大きく変えない。

 足だけで位置をずらし、体の正面を崩さない。

 頭の中には、いつもの癖でいくつもの嫌な場所が浮かんでいた。

 ここに足を置いたら、地面が抜けた時に戻れない。

 ここへ寄りすぎると、誰かが倒れ込んできた時に巻き込まれる。

 それを避ける形で、一歩ずつ置いていく。

『セイ、今は見せていいところです』

(分かってる)

「止まれ」

 何度か繰り返したところで、ガランさんの声が飛んだ。

 彼はゆっくり近づいてきて、俺から少し離れた場所に立つ。

「……やっぱり、普通の子どもの歩き方じゃないな」

「どういう意味で、ですか?」

「危ない場所を先に決めてから足を置いている。崩れる場所に足を出さない。人が飛んでくる通り道を避ける。そういう足だ」

 ガランさんは砂の上に指で一本の筋を引いた。

「昨日の崖でも、そうだったんだろう」

 通り道。

 その言葉に、胸の奥が小さく跳ねた。

『“線”とは言われていません。大丈夫です』

(分かってるけど、言い方が近いんだよ)

 ガランさんは立ち上がると、今度は数歩離れた位置へ移動した。

「次は俺が動く。お前はぶつからないように避けろ。攻撃はしなくていい」

「了解です」

 ガランさんが一歩、こちらに近づく。

 大きな動きではない。

 けれど重心の置き方に、無駄がなかった。

 そのまま踏み込まれたら、肩が俺の胸元に当たる。

 右足を出せば、俺の足首が踏まれる。

 俺は右斜め後ろへ半歩だけずれた。

 左足はすぐ前へ出せるように残す。

 ガランさんの肩が、俺のすぐ前を通り過ぎた。

「ふむ」

 次は右から。

 さっきとは逆の角度で、少しだけ踏み込みが強い。

 俺は前には出ない。

 左足を引き、右足を横へ滑らせる。

 通り道から、体を外へ逃がした。

 何度か、角度と距離が変わる。

 そのたびに、俺は半歩から一歩でぶつからない場所へ移動した。

 真正面に立たれた時だけは、左足を前に出し、右足を少し後ろへ残す。

 体を薄くして、肩をすり抜けさせる。

 やがて、ガランさんが手を上げた。

「よし。そこまででいい」

 そう言って、裏庭の端に置いてあった木剣を一本拾い上げる。

 胸の奥が、少しだけ冷えた。

「……昨日の報告は、もう聞いた」

 ガランさんは木剣を肩に担ぎ、ゆっくりと言葉を続けた。

「崖が崩れたこと。濁りが噴き出したこと。魔物の数と種類」

 一本ずつ、事実を数えるような声だった。

「それから、お前がリアンを助けたこともな」

 喉が渇く。

「アヤは言った。セイがいなければ間に合わなかった。だが、禁止していた危険行為でもある、と」

「……ですよね」

「コルトは、現場の戦力として見れば頼もしすぎる、と言った」

 ガランさんは木剣の先で、砂地を軽く叩く。

「ミナは、ずっと後ろに置くのも違う、と言った。リアンは、セイの力は祈りでも魔法でもない。だが、自分の祈りと同じくらい、助けるための力に見えた、と言った」

 全部、聞かされている。

 そういう声だった。

「……俺は」

 何か言おうとして、言葉に詰まった。

 あの時は、考えるより先に体が動いた。

 ルールを守ったとは言い切れない。

 けれど、動かなかった方が、もっと危なかった。

「このまま“戦闘完全禁止の少年”として扱うのは、もう現実的じゃない」

 ガランさんは、砂に引いた筋を木剣の先で消した。

「だから、ギルドとして正式に、お前の実力を測る。どこまで任せてよくて、どこから先は駄目か。そこを引き直す必要がある」

「……それが、今日の裏庭ですか」

「今日は顔合わせと、足と間合いの確認だ」

 ガランさんは木剣を構え直した。

「本番は明日。ギルド裏手の訓練場で、皆の前でやる。昇格の話も含めて、そこで決める」

「昇格……」

 口の中で、その言葉を転がす。

 今の俺は、まだ見習い扱いだ。

 荷物持ちと地図係。

 そこから一歩出るには、ギルドとしての印がいる。

「もちろん、無理にとは言わない。お前が今のままでいいと言うなら、昇格の話はここで終わりだ」

 ガランさんの声は、意外なくらい柔らかかった。

「ただ、その場合でも、お前とは一度、木剣を合わせる。今後、お前をどう守るかを決めるためにな」

 俺は拳を軽く握った。

(今のまま、か)

 荷物を持つ。

 地図を見る。

 危ない場所を避ける。

 それだけでも、たぶん役には立つ。

 でも、昨日リアンの足元へ走った黒い筋を、俺はもう見てしまった。

 あれをもう一度見て、「俺の仕事じゃない」と背を向けられる自信はない。

「……やります」

 気づけば、そう口にしていた。

「ルールの中で。前に出ていい場所と、出ちゃいけない場所を決めるために、俺のことを見てください」

 ガランさんは、ふっと笑った。

「よし。なら、今日のところは少しだけ木剣を振る。取れ」

 俺は裏庭の端に置かれていた木剣を拾った。

 短剣より少し長い。

 それでも、子ども用に近い短めの木剣だ。

「今日の目的はひとつだ」

 ガランさんが、肩の力を抜いて立つ。

 ただそこにいるだけなのに、一歩踏み込めばどこまで届くかを正確に測っている立ち方だった。

「倒そうとするな。俺の木剣を逸らして、自分も俺も怪我をしない場所へ流せ。それだけ考えろ」

「了解です」

『セイ、今日は“本番前の確認”です。見せすぎないでください』

(うん。あくまで、少し動ける子どもくらいで)

『少し、の定義が心配です』

(そこは信用してくれ)

 木剣を両手で握り、胸の前に上げる。

 右足を半歩前へ。

 左足を少し後ろへ。

 その時点で、逸らせる場所と、無理に受けると崩れる場所がいくつか浮かんだ。

「行くぞ」

 ガランさんの足が、音もなく砂を踏んだ。

 最初の一撃は、肩から落とされる軽い縦打ちだった。

 俺は木剣の側面を合わせ、正面で受け止めない。

 左へ半歩ずれながら、力を横へ逃がした。

 木と木が触れる乾いた音。

 腕には重さが残ったが、潰されるほどではない。

 二回目は横から。

 腰の高さへ流れてくる木剣を、俺は斜めに合わせて上へ逃がす。

 前には出ない。

 足だけを動かし、体の中心を外す。

 三回目。

 ガランさんの木剣が、俺の肩先を狙うように落ちてきた。

 俺は受ける角度を少し変え、木剣を滑らせる。

 砂を踏む足に、力を入れすぎない。

 重心は、いつでも逃げられる場所に置いた。

「……なるほどな」

 ガランさんはそこで木剣を引いた。

 まだ汗もかいていない。

 けれど、これ以上続ければ本番の中身に踏み込みすぎる。

 俺にも、それは分かった。

「今日はここまでだ」

「はい」

 俺は木剣を下ろし、少しだけ肩で息をした。

(疲れたふり、忘れるな)

『はい。肩をもう少し上下させてください』

(演技指導までされるのか、俺)

『必要です』

 内心でぼやきながら、俺は息を整えるふりをした。

 ガランさんは木剣を肩に担ぎ、こちらを見る。

「明日が本番だぞ、セイ」

「はい」

「お前がどこまでいなせるのか。俺に見せてみろ」

 その言葉が、妙に胸の奥に残った。

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 その日は、外の依頼は入らなかった。

 濁りの噴き出しと崩落があったばかりだ。

 ギルドとしても外縁に出るパーティを絞っているらしく、俺たちに出された指示は「午前は休み、午後は村内の見回り」だった。

 昼過ぎまでは、それぞれが装備の手入れや荷物の整理をして過ごす。

 俺は教会とギルドを行き来しながら、昨日のルートの記録をリラと一緒に整理した。

 夕方。

 灯籠に火が入り始める頃、ギルドの前でアヤが空を見上げていた。

「アヤさん」

「あ、セイ君」

 振り返ったアヤは、いつものように凛とした顔をしていた。

 けれど、目元に少し疲れが残っている。

「明日、ガランさんとやるって聞いたよ」

「はい。昇格テストも兼ねて、だそうです」

「そっか」

 アヤは一度、視線を落とした。

「正直に言うとね。私は、まだうまく整理できてない」

「整理、ですか」

「うん。セイ君が戦えるってことが、昨日の一歩で分かったから」

 アヤは胸元の革鎧に指を添える。

「リアンを助けてくれて、本当にありがたかった。でも同時に、私はセイ君に危ない一歩を踏ませたんだって、ずっと考えてる」

「無茶、というほどじゃ」

「あるよ」

 即答だった。

「セイ君は、本当なら後ろで道を見てるだけでいい子だった。崩れかけた崖の前で、あんな一歩を踏ませたのは、パーティリーダーとしては失点だよ」

 自分を責める声だった。

「でも、あの一歩がなかったら、リアンは今ここにいなかったかもしれない。だから、あの場で私は『ありがとう』って言うことしかできなかった」

 アヤは小さく息を吐く。

「明日の試合は、セイ君のためでもあるけど、私のためでもあるんだと思う」

「アヤさんの?」

「うん。私が、セイ君をどこに立たせるべきか、ちゃんと見るための機会」

 アヤは、まっすぐ俺を見た。

「お願いがあるんだけど、聞いてもらっていい?」

「俺にできることなら」

「明日は、ガランさんを倒そうとしないで」

 その言葉に、俺は少しだけ目を瞬かせた。

「倒す、ですか」

「うん。勝つところじゃなくて、最後まで立っているところを見せてほしい。ガランさんの攻撃をいなして、自分も相手も壊さずに立っているセイ君を」

 妙に、胸に落ちる言葉だった。

(……いや待て。ギルドマスター相手に、勝たずに負けずに最後まで立ってろって、注文としてはかなり無茶じゃないか?)

『難易度は高いですね』

(そこは否定してほしかった)

 俺が元いた世界で、一度だって「勝ち」に立ったことはない。

 勝ち負けではなく、壊さないこと。

 それだけを選び続けてきた。

「……分かりました」

 俺はゆっくり頷いた。

「勝つことより、最後まで立ってる方を優先します」

「ありがとう」

 アヤはようやく、少しだけ笑った。

「私も、ちゃんと見る。セイ君が前に出る時の危険も、頼もしさも、両方」

 その言葉が、妙に心強かった。

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 夜。

 教会の裏庭へ出ると、灯籠の光が低い塀と木々を照らしていた。

 その真ん中で、リアンが祈りの姿勢を解いて振り返る。

「セイさん」

「こんばんは。……また裏庭に来てしまいました」

「ふふ。ここ、落ち着きますから」

 リアンは小さく笑ったあと、少し真面目な顔になった。

「明日、ガランさんと試合をするって、聞きました」

「はい。昇格テストも兼ねて、だそうです」

「その……」

 リアンは袖口をきゅっと握った。

 昨日、焦げ跡が残っていたところだ。

 今は祈りと清浄で整えられていて、黒ずみは見えない。

「昨日は、助けていただいて、本当にありがとうございました」

「礼なんて。俺も、あそこで動かなかったら後悔してました」

 リアンは静かに頷く。

「私、セイさんの力を、祈りでも魔法でもないと思っています」

「……え?」

「でも、私の祈りと同じくらい、誰かを助けるための力だと感じました」

 それは、ガランさんが伝えたと言っていた言葉と同じだった。

「だから、明日の試合も……セイさんが誰かを傷つけるためじゃなく、守るための力を見せてくれるなら、私は安心して祈っていられます」

「守るため、か」

「はい」

 リアンは胸の前で手を重ねる。

「ガランさんは厳しい方です。でも、とても優しい方です。セイさんがどこまで前に出て、どこから先は出ないのか。本気で考えてくださっていると思います」

 どこまで前に出るか。

 どこから先は出ないか。

 その言葉に、不思議と肩の力が抜けた。

「分かりました」

 俺は小さく息を吐く。

「じゃあ、明日も、リアンさんの祈りを背中で受けていられるように頑張ります」

「はい」

 リアンは、今度ははっきりと笑った。

 夜風が少し冷たくなってきたので、俺は礼を言って教会の中へ戻った。

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 小さな部屋に戻ると、薄暗い室内にリラの声が落ちてきた。

『おかえりなさい、セイ』

「ただいま」

 窓の外には、灯籠の光が小さな輪になって並んでいる。

 俺はベッドの端に腰を下ろし、軽く伸びをした。

『明日の試合について、整理しておきましょうか』

「そうだな。目標を決めておかないと」

 俺は指を一本立てた。

「ひとつ目。明日、俺は勝ちに行かない。倒すんじゃなくて、いなして立ち続ける」

『はい。ガランさんの攻撃を受け、流し、自分も相手も最小限の負担に抑える。それが目的です』

「ふたつ目。見せすぎない」

 自分で言って、少し苦笑する。

「俺の本当の反応を全部出したら、多分いろいろ面倒になる。ガランさんはともかく、ギルド本部とか、教会とか」

『そうですね。理層寄りの動きや、人間離れした反応速度は封印しましょう』

「うん。あくまで、よく訓練された少年の範囲で」

 俺は三本目の指を立てる。

「三つ目。それでも、何もしない危険は伝える」

『何もしない危険、ですか』

「昨日みたいな場面で、俺が動かなかったらどうなっていたか。そこは、ガランさんにも共有してもらう必要がある」

『つまり、セイが完全に後ろへ下がり続ける選択肢にも危険がある、と見せるのですね』

「そう」

 俺は手を下ろした。

「最初の何回かは、ぎりぎりまで避けるだけに徹する。だけど、命に関わるところまで行く前に切り替える」

『了解しました。明日の試合用に、動きのパターンをいくつか整理します』

「頼む」

 ベッドに横になる。

 目を閉じても、足の裏に砂の感触が残っていた。

 木剣の重さ。

 ガランさんの一歩。

 昨日、リアンの足元へ走った黒い筋。

 見せるものと、隠すもの。

 守るために出る一歩と、出てはいけない一歩。

 その境目を考え続けるうちに、意識が少しずつ沈んでいった。

 夜明け前。

 村のどこかで鐘が一度だけ鳴り、俺は目を開けた。

 装備を確かめる。

 短剣。

 革鎧。

 肩当て。

 昨日と同じ、“今日の装備”。

『体調は安定しています』

(よし)

『ただし、緊張はしています』

(そこは言わなくていい)

『必要な情報です』

 小さく息を吐き、教会を出る。

 朝の空気は冷たかった。

 ギルドの裏手へ回った瞬間、空気が変わる。

 人の気配が、思っていたよりずっと多い。

 木柵の向こうから、ざわめきが押し寄せてきた。

 冒険者だけじゃない。

 村の人たちもいる。

(……思ったより公開されてるな)

『はい。見せすぎ注意です』

(分かってる)

 足元の砂を踏む。

 昨日より重い音がした気がした。

 その時、向こう側でガランさんの声が響いた。

「今日は、セイの昇格テストだ」

 ざわめきが、すっと引いていく。

 俺は木柵の入口に立ったまま、息を吸った。

 見せるところと、隠すところ。

 その線を、今日は人前で引かなければならない。

 

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